かつてヤクルトスワローズで大活躍した名投手・岡林洋一さんが『世界!ニッポンに行きたい応援団』(テレビ大阪1)に登場!。
岡林さんはパラグアイ出身で14歳まで住んでいました。その時にバッテリーを組んでいた関富美男さんと感動の再会を果たします。
今回は、岡林洋一さんについて調べてみました。
岡林洋一のプロフィール、生い立ち
岡林洋一さんは、南米パラグアイの日系人移住の2世で、パラグアイのイグアス移住区で生まれました。
1968年4月11日生まれで54歳です(2022年8月時点)。
1982年の中学校3年生(14歳)の時に、ご両親の生まれ故郷の高知県香美郡に戻り住み始めました。
ちなみに国籍は日本です。
国籍:日本
出身地:パラグアイ/アルトパラナ県/イグアス市
生年月日:1968年4月11日
年齢:54歳(2022年8月時点)
身長:186cm
体重:80㎏
岡林洋一 高校時代の成績
岡林さんは、高知県の高校野球の名門校「高知市立高知商業高等学校」へ進学。
1985、1986年と夏の甲子園に2度出場しています。
1985年はエースの中山裕章投手の控え投手として出場しベスト8。
準々決勝で負けた相手は、桑田真澄さん、清原和博さんが活躍したPL学園でした。
ちなみに中山投手は高校卒業後、横浜大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)にドラフト1位で入団した、超高校級のピッチャーです。
1986年は、エース兼キャプテンとして出場しベスト8。
準々決勝で負けた相手は、埼玉県の浦和学院でした。
岡林洋一 大学時代の成績
岡林さんは、高知商業を卒業後、専修大学に進学。
1989年東都大学野球春季リーグ戦で6勝1敗の成績を挙げ、史上最多となる31回目の優勝に貢献しました。
その貢献が認めれ、最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナイン選ばれました。
東都大学野球リーグには、通算62試合に登板し、28勝18敗、防御率1.85、奪三振数248という、素晴らしい成績を残しています。
チームメイトには、
杉山賢人さん(西武ライオンズ→阪神タイガース→大阪近鉄バファローズ→横浜ベイスターズ)、
武藤純一さん(千葉ロッテマリーンズ→日本ハムファイターズ→西武ライオンズ)、
町田公二郎(広島東洋カープ→阪神タイガース)
など、プロ野球で活躍した選手がいます。
岡林洋一 ヤクルトスワローズ時代の成績
岡林洋一は入団してすぐに活躍
岡林さんは、専修大学での活躍により、1990年のドラフト会議でヤクルトスワローズから1位指名を受けて入団しました。
ルーキーイヤーから、オープン戦でルーキー大賞を受賞、シーズン中も抑えの投手として活躍し、12勝6敗12セーブを挙げました。
最優秀新人賞の候補でしたが、この年のセントラル・リーグは、中日ドラゴンズの森田幸一さんが選べれました。
ちなみパシフィック・リーグは大リーグでも活躍したオリックスの長谷川滋利さんが選ばれています。
岡林洋一は、1992年のセントラル・リーグ優勝に貢献
入団2年目、1992年のシーズンは開幕から先発投手として活躍し、シーズン終盤は抑えに回りました。
その活躍により、14年ぶりのセントラ・リーグ制覇に貢献。
成績は15勝10敗で、セントラル・リーグの最優秀バッテリー賞に、古田敦也選手と一緒に選ばれています。
岡林洋一は、1992年の日本シリーズで活躍
日本シリーズの対戦相手は、西武ライオンズでした。
この対戦は第7戦までもつれ込み、チームとして日本シリーズを制することは出来ませんしたが、岡林さんは第1、4、7戦の3試合に登板しすべて完投し、敢闘選手賞を受賞しています。
その3試合の成績は1勝2敗、防御率1.50でしたが、日本シリーズで3試合を完投した選手は、1964年のジョー・スタンカ選手以来の28年ぶり4人目で、すごい記録を打ち立てています。
また、延長戦が2試合あって、トータル30イニング、430球を投げ抜いています。
これは今の野球のでは考えられない投球数で、これがきっかけで故障に悩みつづけました。
岡林さんのこの素晴らしい活躍は、今でもヤクルトファンの心の中に深く刻まれ、伝説として語り継がれています。
1993年、ヤクルトスワローズは日本シリーズを制覇
1993年もヤクルトスワローズの快進撃が続き、セントラル・リーグを制覇。
そして、日本シリーズも西武ライオンズに昨年の雪辱を果たし、見事に日本シリーズを制覇ました。
しかし、岡村さんはシーズン中の7月から故障で戦線を離脱し、日本シリーズでも登板がありませんでした。
2000年に引退を表明
岡林さんは、故障に悩まされ1995年11月には手術をしましたが、その後思う成績が残せず、2000年に現役を引退することになりました。
岡林洋一の言葉に、名将「野村克也監督」は涙を流す
1992年日本シリーズでの3試合連投が原因で故障に悩まされ続け、2000年に引退しました。
その日本シリーズの野村克也監督は、ずっと岡林さんに対して申し訳ないと思っていました。
しかし、テレビ番組で岡林さんは、あの日本シリーズの3試合連投があるから、今の自分があり一切悔いはないのと、野村克也監督には自分をめちゃめちゃ成長させてくれたと語っていました。
その思いをはじめて聞いた野村克也監督は、目に涙を浮かべながら監督やっていてよかったとしみじみ語っていました。
岡林洋一のプロ野球選手時代の年棒
岡林さんは、1990年に契約金7500万円でヤクルトスワローズへ入団しています。
そして、年棒は以下のとおりです。
年度 | 推定年棒 |
1991年 | 780万円 |
1992年 | 2400万円 |
1993年 | 6100万円 |
1994年 | 6000万円 |
1995年 | 8700万円 |
1996年 | 8000万円 |
1997年 | 6000万円 |
1998年 | 3600万円 |
1999年 | 3600万円 |
2000年 | 3300万円 |
合計 | 48480万円 |
岡林洋一は有望野球選手をスカウト
岡林さんは、プロ野球選手を引退後、ヤクルトスワローズの二軍投手コーチに就任しました。
2005年のシーズンからスカウトへ転身し、高知県に駐在し中四国地区を担当しています。
現在は球団の編成グループ課長も務めています。
まとめ
いかがだったでしょうか?
岡林洋一さんには、これからも日本のプロ野球全体のために頑張ってもらいたいですね。
最後までご覧いただきありがとうございました。
